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お茶文化の発展の歴史!京都の伝統文化との深~い関係

2022.12.01

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日本人にとってなじみの深い、お茶。身近にあるお茶が、どのようにさまざまな文化と関わり、発展してきたのかを知っている方はそう多くないでしょう。お茶の歴史や茶の湯文化を紐解くと、京都で育まれた他の伝統文化との関係性も見えてきます。

日本のお茶の歴史や、茶道・和菓子・やきもの・懐石料理などの伝統文化とお茶との深~い関係について、同志社大学 京都と茶文化研究センター長の佐伯順子先生に伺いました。

お茶

目次

日本茶の歴史と発展

お茶が日本で最初に記述として現れるのは、遣唐使の時代。永忠(えいちゅう)という僧侶が中国からお茶を持ち帰り、嵯峨天皇に献上したという記録が残されています。しかし、このときのお茶は、限られた上流階級のみで飲まれていたようで、広く知られることはありませんでした。

その後、建久2年(1191)に、臨済宗の開祖である栄西(ようさい)が宗からお茶を持ち帰り、この頃よりお茶の栽培が日本国内で始まったといわれています。栄西は『喫茶養生記(きっさようじょうき)』でお茶の効能を記しましたが、それによると薬の一種としてお茶が扱われていた時期もあったようです。京都・高山寺の明恵(みょうえ)上人によって茶栽培が活発になり、多くの茶園が生まれ、全国に広がっていきました。

茶の湯文化の広がり

室町時代になると、『喫茶養生記』の影響もあり、武家社会の社交として、お茶が用いられるようになります。それが村田珠光(むらたじゅこう)が生み出した「わび茶」であり、のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休によって「茶の湯」が完成していきます。

「平安時代は女房文化ともいわれ、宮中の女性たちの豊かな感性を反映した文化が育まれました。それに対して室町時代になると武家の社会となり、男性中心の文化が発展していきます。茶の湯の所作の美しさには、直線的で、男性的なキビキビとした潔さや精神性が感じられます。また禅寺では今でも“茶礼(されい)”という儀式があり、お茶は禅の修行の大切な一部となっています。室町時代には能楽も発展しますが、禅、能楽、茶の湯は本質的なところで繋がっているように思います」と佐伯先生は考えます。

お茶と和菓子

男性の文化だった茶の湯が女性のたしなみへ

安土桃山時代、そして江戸時代になっても“茶の湯”は長らく男性社会の社交のためにありました。それが近代になって女性のたしなみ、嫁入り前のお稽古ごととしてもてはやされるようになるのには、ある一人の女性の存在が関係しています。それが、新島八重(にいじまやえ)です。

「八重は夫の新島襄(じょう)が亡くなったのち、50歳になってから裏千家の門を叩き、お茶のお稽古を始めます。もともと男勝りだった八重は、お点前の男性的な所作に心惹かれるものがあったのでしょう。すっかり茶の湯に魅了され、自らの趣味としてだけでなく、礼儀作法を身につける女子教育の一環として、裏千家茶道を取り入れたのです」

それまで男性中心の社交のためにあった茶の湯を女子教育に取り入れるというのは、当時は画期的なことだったに違いありません。京都という土地だからこそ、それができたと佐伯先生はいいます。

「三千家のお家元があり、地元に多くの素晴らしい茶室があって、お茶に触れる機会が多かったからこそ、八重もお茶の世界に目覚めたのでしょう。かつて女房文化が花開いた京の都で、男性社会のものであった茶の湯が、八重という女性によって新たに見出され、女性たちとともに育まれるようになったこと。ここに、とても深い縁を感じますね」

清浄なる茶室でいただく馥郁(ふくいく)たる一碗のお茶。お茶がどれほど豊かな文化を生み出し、育んできたのか。改めてそのことに思いを馳せつつ、大切な一服を味わいたいものです。

京都の文化は茶の湯がルーツ?

茶の湯を完成した千利休の美意識によって、日本の芸術文化は発展を遂げます。
「利休は華美な装飾など余分なものをすべて削ぎ落とし、“わびさび”の境地に到達した、お茶の世界を確立します。削ぎ落としきったところにこそ、真に豊かな精神性が宿る。利休の美意識によって、茶碗やほかのお道具、花、香、菓子や料理に至るまで、今日に継承される多様な芸術文化が発展していったといえます」

やきものでは樂茶碗が生まれ、のちの仁清(にんせい)、乾山(けんざん)をはじめとする京焼の隆盛へと繋がっていきます。

貴族など上流階級の人々の器や、茶人のもてなしの器は嗜好品としてさまざまな意匠を求められ、窯元はその要望に応えるため、切磋琢磨していきます。同様にお菓子や懐石料理をはじめとする料理も、職人たちが互いに刺激し合い、他の追随を許さない京都独自の美の世界をかたちづくっていったのでしょう。

「京菓子には独特の色彩感覚があると思います。やわらかなグラデーションは、京都の繊細な季節の移り変わりを見事に映し出していますね。ほんのり薄紅の桜の花びら、青紅葉、朝露、紅葉、雪景色といった四季折々のほんの一瞬の景色を、お菓子に映し出して表現する。こんな食文化は世界でも類を見ないと思います。室町時代は武家文化といっても、そのベースには王朝文化があり、たとえば、十二単の襲の色目の美学に通じる色彩感覚が京菓子には息づいていると思います」

茶器

お茶とともに発展した京都の伝統文化

最後に、お茶とともに発展した京都の伝統文化4つをご紹介します。

【茶碗】

長いとき、歴史の中心地として栄えてきた京の街。数々の文化が生まれ、その多くがお茶と密接に関係しています。お茶を飲むのに欠かせない茶碗も、そのひとつ。

「茶の湯が繁栄するとともに、日本独自の陶磁器文化が生まれ、茶碗の嗜好にも変化が起こります」

それまでのに見られるような豪華なものから、手づくねが特長的な樂茶碗のように華美な装飾を排した、わびさびの伝統を受け継ぐ茶碗が好まれるようになっていきます。

その後も利休の弟子・古田織部の指導によって生まれた織部焼や仁清、乾山を中心とした京焼の繁栄など、茶の湯を背景にしたやきものが流行、京都の街に集まりました。

江戸時代初期には京都でも本格的に作陶が行なわれ、上絵付け技法を用いた京焼の生産が始まります。多くの著名な作家を輩出し、京都の茶碗の文化を今に伝えています。

黒織部茶碗と赤樂茶碗

左/黒織部茶碗、右/赤樂茶碗

【和菓子〜干菓子〜】

次に、茶の湯とともに花開き、京都の文化として欠かせないのが和菓子です。お茶席でいただくお菓子は2種類あり、濃茶には主菓子、薄茶には干菓子が用いられることが一般的です。

「季節の移ろいを感じ取り、風情を写しているのが茶の湯のお菓子の特長です」と佐伯先生は話します。

紅白の有平糖の千代結びに、縁起のよい根付きの若松の煎餅…。新年を寿ぐ美しい干菓子は、二条通に店を構える「亀屋伊織」のもの。創業以来約400年余、お茶席の干菓子だけを専門に扱っている父子相伝の老舗です。

「茶の湯の主役は、あくまでお茶」と心得え、薄茶に合い、薄茶の味を引き立たせるために、お菓子の分量を減らして口の中でとけるように軽やかに仕立てられています。

お茶席の雰囲気に自然と溶け込むシンプルな意匠ながら、趣向に合せて四季折々の美しさで場に彩りを添える絵になる干菓子です。

左/有平糖 千代結び、右/煎餅 若松

左/有平糖 千代結び、右/煎餅 若松

亀屋伊織

【住所】京都市中京区二条通新町東入
【電話】075-231-6473
【時間】9:00~16:00
【定休日】完全予約制
※地方発送不可

【和菓子〜主菓子〜】

やわらかな口どけと上品な餡の甘さの主菓子は、きんとんや練り切りなどの技法で、季節の移ろいを繊細に表現したものが多くあります。

お茶席のお菓子には、亭主の趣向が表現されているので、お茶席に招かれた際の楽しみのひとつです。

お菓子に付けられた美しい「銘」に耳を傾け、色彩豊かに表現された四季や風物詩を目で堪能し、そして最後に味を楽しむ……。そんな五感で味わう京菓子の魅力を原点に掲げた「末富」は、代々、茶道の各御家元に出入りを許された京菓子司です。

京菓子の基本はオーダーメイド。お茶席で使用する菓子皿や掛け軸などを聞いて、試作を重ね、亭主の趣向や好みを表します。「新年のお祝いに」との思いからうまれた、薯蕷(じょうよ)饅頭もそのうちのひとつです。

四季の移ろいに敏感な京の街で、お茶と寄り添いながら独自の文化を築いた京都の和菓子。職人の技巧を凝らした繊細な「美」が楽しめます。

左/薯蕷饅頭 常盤、右/きんとん 紅梅

左/薯蕷饅頭 常盤、右/きんとん 紅梅

京菓子司 末富

【住所】京都市下京区松原通室町東入
【電話】075-351-0808
【時間】9:00~17:00
【定休日】日曜・祝日、1月1日~3日
【HP】http://www.kyoto-suetomi.com

【懐石】

ユネスコ無形文化遺産に登録され、近年、世界中からも注目を集めるようになった和食。理想的な栄養バランスと四季折々の食材を使用し、日本人の気質に基づいた食の文化にもまた、お茶との深い関わりがありました。

お茶をおいしくいただくために、茶事に招いたお客様をもてなす食事を、茶懐石といいます。

“懐石”という言葉は、昼食以外をとることが許されていなかった修行中の禅僧が、温めた石を懐に入れて空腹をしのいだことに由来し、「腹を温める程度の軽食」という意味をもっています。

お茶席に懐石料理が用いられるようになったのは、室町時代に入ってからのこと。茶の湯の発展とともに、千利休が茶懐石の原形をつくり、江戸時代末期には、すでに現在の形が形成されていたと伝わります。

そんな日本人のおもてなしの真髄が詰まった茶懐石をいただける場所があります。世界遺産・下鴨神社の脇に店を構える懐石料理の老舗「下鴨茶寮」です。

安政3年(1856)創業のこちらの茶懐石は、お腹を満たしてお茶を楽しむためのもの。茶道の流派によって異なりますが、基本は一汁三菜。飯、汁、向付(むこうづけ)の懐石膳、煮物椀、焼物、預鉢(あずけばし)、強肴(しいざかな)、箸洗い、八寸、香の物の順でいただきます。

旬の京野菜やはしりの素材をふんだんに使い、「料理とお茶、お互いを引き立て合う関係」を意識した料理は、盛り付け方や器など、細部に至るまでおもてなしの心が行き届き、あとに続く主役のお茶への期待で心も満たされていきます。

左上/懐石膳、左下/預鉢、右上/煮物椀、右下/強肴

左上/懐石膳、左下/預鉢、右上/煮物椀、右下/強肴

下鴨茶寮

【住所】京都市左京区下鴨宮河町62
【電話】075-701-5185
【時間】11:00~15:00(L.O 14:00)、
17:00~21:00(L.O 20:00)

【定休日】不定休
【HP】http://www.shimogamosaryo.co.jp

佐伯順子さん

同志社大学大学院教授/
京都と茶文化研究センターセンター長
佐伯順子さん

東京大学大学院博士課程修了。国際日本文化研究センター客員助教授などを経て、同志社大学大学院教授に。2014年、京都における日本茶をめぐる歴史と文化の研究拠点として、同志社大学 京都と茶文化研究センターが発足、センター長を務める。著書に、『遊女の文化史』、『明治〈美人〉論–メディアは女性をどう変えたか』など多数。

まとめ

普段何気なく飲んでいる「お茶」。そのルーツは遣唐使の時代にまで遡ります。上流階級の特権から薬としてのお茶へ、そして武家社会のたしなみ・茶の湯の発展へと続きます。それらはすべて京都とつながりがありました。お茶とともに発展してきた、茶碗や和菓子などの伝統文化もまた、千年の都・京都で育まれ今に至ります。お茶と京都は切っても切ない深い関係にありました。お茶をいただきなが日本が誇る伝統文化を感じてみましょう。


  

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