トップ > 108 京都の画家の挑戦!衹園祭の山鉾を1年に1基、すべて描く壮大な34年計画!

完成は2034年!画家が挑戦する衹園祭の山鉾をすべて描く壮大な計画!

2024.06.01

杉森康彦さんの画像

京都の歴史ある衹園祭の山鉾は全34基。画家の杉森康彦さんは、1年に1基描く「衹園祭34年計画」に取り組んでいます。毎年衹園祭へ通う杉森さんに映る衹園祭の姿。後世に残したい、鉾町の歴史と伝統、人々の願いが込められた神事の意味が見えてきます。

1.京都の衹園祭とは?

日本三大祭りの一つ・衹園祭は八坂神社の祭礼で、その祭事は、7月1日の「吉符入」に始まり7月31日の「疫神社夏越祭」まで、およそ1ヵ月にわたります。なかでも、祭のハイライトは山鉾が街を練り歩く山鉾巡行。「京都衹園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にも登録されています。

❶衹園祭の歴史

衹園祭の歴史は平安時代、貞観11年(869)にまで遡ります。当時、京の都をはじめ、多くの国で疫病が流行しました。その疫病を祓うため、神泉苑(京都市中京区)に当時の国の数にちなんだ66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされています。

応仁・文明の乱で一時山鉾巡行は途絶えましたが、明応9年(1500)に町衆の手で再興。 これらが契機となり、山鉾は町衆の手によって創意がこらされ、内装外観ともに豪華、絢爛なものとなります。江戸時代には火災に見舞われるなど、いくつかの危機がありましたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られています。2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。

山鉾巡行は本来、八坂神社の神輿渡御に伴う「露払い」の為にあり、神幸祭に先立つ「前祭(さきまつり)」と還幸祭の「後祭(あとまつり)」がありました。しかし、高度経済成長期以降、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていましたが、 祭り本来の形を取り戻そうと、2014年に約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活します。

❷衹園祭の最大の見どころ、全34基の山鉾

山鉾巡行では前祭で23基、後祭で11基の山鉾が街を練り歩き、「動く美術館」と称されるほど豪華絢爛で迫力ある姿を見ることができます。34基の山鉾のひとつひとつに、いわれを表した意匠や豪華な装飾が施されています。

各山鉾町では宵山や巡行の日以外でも、山や鉾を見ることができます。前祭7月10~14日・後祭7月18~21日には伝統技法で組み立てる「山建て」「鉾建て」が行なわれ、京都のまちなかのいたるところに山や鉾が姿を現します。「山建て」「鉾建て」の後には、試し曳きをする「曳き初め」をする様子も見ることができます。

2.すべての山鉾を34年かけて油絵に描く杉森康彦さんの挑戦

京都の画家、杉森康彦さんは、1年に1基描く「衹園祭34年計画」に取り組んでいます。毎年衹園祭へ通う杉森さんに挑戦を始めたきっかけ、衹園祭の魅力についてお聞きしました。

衹園祭画家 杉森康彦さん

絵を描く杉森康彦さんの画像

京都府出身。瓜生山学園京都芸術大学通信教育部大学院洋画分野修了。光陽会会員。2002 年より衹園祭の山鉾を描き始める。2018年母校の京都芸術高等学校で「衹園祭33 年計画半分完成展」を開催(当時は山鉾は33基だったが、2022年に鷹山が復活し、34基に)。そのほか個展、絵画展への出展多数。【HP】http://www.eonet.ne.jp/~iroiroyasuhiko

■きっかけは、30歳のときに見た圧倒的な山鉾の美しさ

まだ仄暗い京の朝。CDをかけ、お囃子の調べを背に神聖な心持ちで制作に取り組む杉森さんの姿があります。日中は精密機器のメーカーに勤める杉森さんは、会社から帰宅後すぐに睡眠をとり、なんと起床は深夜2時。それから朝まで、F100号サイズのキャンバスに向かいます。

衹園祭を描き始めたのは、30歳のとき。「四条へ遊びに行った帰り道、深夜に出合った山鉾のたたずまいに圧倒されたのです。導かれるように絵筆を取りました」と回想します。毎年1基ずつ、山鉾を描く壮大な計画を掲げて描いた最初の作品「鶏鉾」は、いきなり公募展で京都府知事賞を受賞。計画は輝かしくスタートしました。

しかし数年後、雨の衹園祭を描きたいのに青色をうまく使えない、構図や色彩に新味がない……と行き詰まりを感じ、2008年に京都芸術大学通信教育部の門を叩きます。日本画で使う雲母を取り入れるなど新たな試みに挑戦し、大学院へ進学。山鉾全基が立ち並ぶ京の街を俯瞰した大作にも取り組みました。

「大学院では見たままではなく、頭の中で画面を再構成することを学び、作風が変化していきました。衹園祭の歴史や山鉾についても調べるほどに奥深く、学びが尽きない。その過程が絵に反映されるのも、一つのテーマを追い続ける醍醐味です」

衹園祭へ赴くことを「出勤」と呼び、欠かさず足を運ぶ杉森さんですが、新型コロナウイルスの影響があった時期は出勤が叶いませんでした。しかし制作の手は止まりません。撮りためた膨大な写真資料をもとに「大船鉾」と「太子山」の2作を仕上げます。2022年は山鉾巡行が再開。長らく休み山だった「鷹山」が復活するなど明るいニュースもあります。

「沈んでしまった人々の気持ちや社会状況に、再開で元気を取り戻せたらいいですね。歴史に残る巡行になるでしょうね」

巡行復活の2022年に描いたのは「伯牙山」。中国の故事に基づいた悲しくも固い絆を感じさせる山です。

■衹園祭とともに20数年。祭への情熱はさらに増す

毎年描き続けていると、祭りの火を絶やさず伝えてきた人びとの思いや歴史の重みを感じると、真剣な面持ちで杉森さんは語ります。

「疫病退散のために始まった衹園祭は、応仁の乱など何度かの中断はあるものの、1000年以上続く、世界にも稀な祭りです。現代の私たちが祭りを楽しむことができるのは、守り伝えてきた人びとの切実な願いがあるからこそ。果たして現代の私たちは後世の人のために何が残せるだろうと、考えてしまいます」

この20年の間に「大船鉾」と「鷹山」の2基が復活し、山鉾を描く計画も34年に延びました。「最盛期には山鉾が58基あったといわれています。そこまで増えたら私が生きているうちに描き切れるでしょうか」と冗談混じりに制作への意欲を見せる杉森さん。

「私の計画は衹園祭に比べればごく短いものですが、鉾町で発表の場を設けていただいたり、注文をくださったり、多くの方のおかげで続けられています。感謝しながら、衹園祭に込められた思いを後世に伝えるべく、制作を続けていきたいです」

『鶏鉾』(2002 年)

『鶏鉾』(2002 年)の画像

天下がよく治まっていたので、訴訟用の太鼓に苔が生えて鶏が宿った、という中国の史話に由来する鉾。暗がりの中、夜の灯がしっとりと鉾を照らす様子をとらえた抒情的な一作目は、京都府知事賞を受賞。

『月鉾』(2009 年)

『月鉾』(2009 年)の画像

真木(鉾の中心にそびえ立つ木)のなかほどにある天王座に月読尊(つきよみのみこと)を祀ることや鉾頭に新月の飾りをつけていることなどから月鉾と呼ばれる。夏の夕陽をあびて輝く鉾と、明るい西の空が響きあう美しい風景は、見る者を衹園祭の世界へ誘う。

『蟷螂山』(2012 年)

『蟷螂山』(2012 年)の画像

自分の力以上の強い相手に立ち向かう、はかない抵抗をたとえた「蟷螂の斧」に由来し、衹園祭の山鉾としては唯一、からくりが施されている山。夏空に鎌を振りかざし抵抗する構図が画面に緊張感を与えている。

『綾傘鉾』(2013 年)

『綾傘鉾』(2013 年)の画像

応仁の乱以前からあった古い形式を受け継ぐ綾傘鉾。計画の当初は山鉾そのものを描いていた杉森さんだが、衹園祭の歴史や意味を学ぶにつれ、御神体や懸装品、儀式にも注目して意識して描くようになった。

『大船鉾』(2020 年)

『大船鉾』(2020 年)の画像

江戸時代に度重なる焼失に遭い、その都度復活してきた鉾。2014 年、蛤御門の変から150 年ぶりに復活を遂げた。「画面には描いたときの世相が反映される」と、コロナ禍の時代にセレクトした背景を語る。

『太子山』(2021年)

『太子山』(2021年)の画像

聖徳太子が良材を求めて自ら山に入り、四天王寺を建立した逸話にちなむ山。薄闇のなか、太子が鎮座する帳(とばり)の上から光が差し込む。コロナ禍のなか、試行錯誤しながら希望を探し求める今の世が重なる。

5.まとめ

毎年衹園祭へと赴き、その姿をひたむきに描き出す杉森康彦さん。杉森さんの描く絵からは、祭に込められた人々の願いが伝わってきます。山鉾ひとつひとつに込められた意味や歴史をすくい取り、杉森さんならではの視点で油絵に描いていきます。

全34基、すべての種類の山鉾を描く計画も折り返し地点を越えました。2034年の完成までもうひと息。「まだまだ先は長いですけどね」と笑う杉森さんの挑戦は続きます。


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