1200年の歴史!弘法大師空海がもたらしたお茶の秘密に迫る!
2024.09.01
真言宗の開祖にして、今なお多くの人々から信仰を集める弘法大師空海。
空海が伝え残したものは、密教や寺院、経典など多岐にわたりますが、その中の1つで、今も連綿と受け継がれているのが「お茶」です。大和茶(やまとちゃ)と呼ばれ、現在は、奈良県の山間部で栽培されています。
空海と大和茶、そして両者をつないだ謎の僧侶の存在に迫ります!
目次
1.みんな知っている空海の、意外と知らない生涯とは?
「空海」の名を、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。平安時代初期に日本仏教の一つ、真言宗を開いた人物です。のちに「お大師さま」として信仰を集める空海には、さまざまな顔があります。僧侶としてだけでなく、文筆家、書家、芸術家、教育者としても知られ、多くの分野で活躍したことから「日本文化に大きな影響を与えた」と評される空海。その生涯は実に波乱に満ちたものでした。
宝亀5年(774)、空海は現在の香川県善通寺市(ぜんつうじし)の豪族・佐伯家に生まれました。幼い頃から漢学や仏教に親しみ、将来を期待されていたといいます。18歳のときに京に上り、大学に入学した空海。そこには、出世して安泰な人生を歩もうとする貴族の子弟が集まっていました。そのような世俗的な価値観に疑問を抱いた空海は、周囲の反対を押し切り大学を中退します。出家して修行僧となったのでした。
仏道修行の道に入った空海は、31歳のとき、遣唐使の留学僧として唐へと渡ります。そこで密教僧・恵果(けいか)に師事して仏教の教えを授かり、わずか3ヵ月で密教を体得。本来なら20年にも及ぶ留学を2年で切り上げ帰国した後は、人々を救うため密教の布教に従事し、高野山開創や東寺の給預を経て、真言宗を確立したのでした。多くの人々に教えを広めた空海は、62歳で入定(にゅうじょう)。後年、醍醐天皇から「弘法大師」の名が贈られました。
2.弘法大師空海が日本に持ち帰った、貴重なものとは?
日本の文化や社会に大きな影響を与えた空海が、唐から持ち帰ったものの一つが、お茶です。鎌倉時代に日本にお茶を伝えたとして知られる栄西よりも早く、最澄と同時期の平安時代初期に、空海は日本にお茶をもたらしました。そのお茶が、現在まで伝わっているのです。
実は、空海は無類のお茶好きであったことが、その著書や詩からうかがえます。詩文集『性霊集(しょうりょうしゅう)』にはお茶に関する詩が多くあり、同じく喫茶を愛した嵯峨天皇とも深い親交があったそうです。
3.空海からお茶の種と茶の製法を受け継いだ、謎の人物に迫る!
お茶を愛する空海が、唐から持ち帰ったお茶の種子を与え、茶の製法を教えたと伝わる人物が、堅恵(けんね)という僧侶です。この人物には謎が多く、空海の弟子の一人とも、宗派の異なる天台宗の学僧ともいわれています。いずれにせよ、堅恵上人は、現在の奈良県宇陀市(うだし)の山中に佛隆寺(ぶつりゅうじ)を建立して茶園をつくり、空海からもらった茶の種子を植えたといわれています。
そして、このお茶こそが現代に受け継がれている「大和茶」の起源とされています。佛隆寺の境内では、今でも茶樹が見られます。
大和茶は、1200年以上前に空海がもたらし、堅恵上人が育てたお茶をルーツに持つ、歴史浪漫あふれるお茶なのです。
佛隆寺・本堂
茶臼
4.奈良の大和高原で今も栽培される、伝統の「大和茶」
空海と堅恵がもたらしたお茶を起源に持つ、由緒ある大和茶は、現在も奈良県北東部に広がる大和高原で栽培されています。
標高約200~500メートルの大和高原は、ほかの地区に比べて冷涼な気候風土で、昼夜の寒暖差が大きいのが特長です。また、山間地のため降水量が多く、陰りがちで霧深い環境なので、茶葉に旨みや甘み、香り成分がギュッと凝縮されます。そのため、大和茶はかぶせ茶のように豊かな風味を持つといわれます。
豊かな自然が育む大和茶を急須で淹れて湯呑に注げば、たちまち立ち上る、すっきりとした清々しい香り……。ひと口飲めば、品のある豊かな旨みが口いっぱいに広がります。
5.まとめ
豪族の子として生まれながら、周囲の反対を押し切って修行僧となり、やがて真言宗の開祖として絶大な支持を集めるようになった空海。多くの分野で活躍した空海が平安時代に唐から持ち帰ったものの1つが、お茶でした。空海から謎の僧侶・堅恵に受け継がれた伝統のお茶は、いつしか「大和茶」と呼ばれるようになり、現在も私たちの喉と心を潤してくれます。皆様も、やさしく温かみのある大和茶を味わって、1200年の歴史に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。