トップ > 012 禅僧・伊藤東凌さんに教わった 日本一わかる「茶と禅」の関係の極意

禅僧・伊藤東凌さんに教わった日本一わかる「茶と禅」の関係の極意

2022.09.01

「茶と禅(ぜん)の関係がこんなにわかるなんて!」編集部一同が感動した読み物がこちら! 有名な茶の湯の言葉に、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」がありますが、これは「茶の湯と禅は本質を同一としている」ということを意味しています。禅寺では、一日に数回茶礼(されい)という礼法も行われていて、お茶は修行にとって欠かせないものです。そんな茶と禅の関係について、気になるけど、実はよくわからない人も多いはず。今を健やかに生きるために知りたいその精神性を、茶祖・栄西が開いた建仁寺の塔頭(たっちゅう)・両足院の副住職であり禅を実践する伊藤東凌さんにお聞きしました。

伊藤東凌さん

坐禅、作務、喫茶は禅の境地に到る方法

 仏教では欲や執着を断ち切り、自分の思うようにいかないことや永久不変のものはないことを受け入れる、「諸行無常」「諸法無我」の境地にたどり着くことを一つの目標としています。集中して心を整え、「無」に近づくのが禅の思想です。「無」というと、心身ともに空っぽになると思う方もいるかもしれませんが、そうではありません。「ゆるめる」「ほどく」「手放す」、そのくらいの意味でご理解ください。

 人は、生きるほどに自分に執着して自分本位の考えに陥りがちです。また、年を取ることや死を迎えることは自然の流れですが、それに抗おうと欲を出しやすいものです。人間は欲や執着がある生き物なのです。

 禅寺では、こうした欲や執着を手放すための方法として作務があります。作務とは、禅僧の生活に欠かせない日常生活の修行のこと。草取りや拭き掃除などによって心を研ぎ澄ますと、無の境地に近づきます。

 禅では、作務だけでなく、坐禅も喫茶も「無」に近づくための一つの方法ととらえています。まったく違う行為なのに同じ状態に近づくとは、いったいどういうことなのかを解説していきます。

伊藤東陵さん

臨済宗建仁寺派 両足院副住職 伊藤東凌さん(いとう・とうりょう)●1980年生まれ。建仁寺派専門道場にて修行後、15年にわたり両足院での坐禅や写経体験などの指導を行なう。いち早く寺院にヨガや美術のイベントを取り入れ、自ら田畑を耕し、食生活や暮らしに禅を取り入れるプロジェクトの実践など、禅の教えを広く積極的に発信。現代における仏教やお寺のあり方を問い続けている。

決まった動作で感性を開き小さな変化に気づく

 禅寺では、朝の坐禅のあと、食事のあと、作務の休憩時、寝る前など、一日に数回、茶礼というお茶の時間をとります。所定の作法でからだを動かしながら、心を整えます。

 毎日決まった動作でお茶を淹れると、まず自分の外側の微細なことに気づくようになります。お湯を注ぐ音、茶葉の量や開き加減、香り、急須の手触りや温もり、重み。こうしたものを五感で感じていきます。すると、今度は自分のからだの変化や自分の内面に気づくようになります。急須で待つ時間を長く感じるか、短く感じるか。お茶を口にしたときに苦いと感じるか、おいしいと感じるか……。

 毎日同じ行為を繰り返すことで、無意識だったことを意識化していきます。決まった動きだからこそ、感覚が研ぎ澄まされ、小さな「違い」に気づけるようになるのです。

 実際、私自身も日常的に自分のためにお抹茶を点て、ほうじ茶を淹れる時間をつくっています。一回二煎、坐禅のあとに一日2セット。急須でゆっくりと茶葉が開くのを感じながらいただく。すると、緊張で狭くなった心や肩の力が抜けて、少しずつほぐれていきます。

 すると、ピリピリしたものがほどけて、「自分」の境界線が曖昧になります。自分のつくった壁や役割、責任が一度ほぐれて、世の中のあらゆることにつながりを感じ、外界と一体感が生まれて、心が「ほっこり」します。この外と内とのつながりを感じる、ほっこりとした状態。これこそが、禅における「無我」の入口です。

無我にたどりつくために意識の粒度を上げる

 先ほど述べた「同じことの繰り返し」を退屈に思う人もいるでしょう。ですが、決まった動作を繰り返さないと、微細な「違い」に気づけないのです。同じことを繰り返すと、人は一つとして同じものはないことに気づきます。そしてその違いを楽しみ始めるのです。

 違いを楽しむとは、それは、五感を通して日々の違いに気づき、ひらめきを得る。私はその状態を「意識の粒度」を上げると呼びます。モヤがかかっていた視界が、くっきり鮮やかになるイメージです。

こうして毎日の作務なり坐禅なり喫茶なりを通じて、心を整え、意識の粒度が上がった状態が「瞑想」です。

 禅の修行として知られる坐禅は、草取りなどに比べると動きがなく静かです。しかし、静かであることは「止まっていること」ではありません。静かに座り続けることで外に感覚を開き、呼吸を意識します。内の状態に気づき、心を細かく解きほぐして、感情の一つひとつを見つめていく。すると、しだいに心が穏やかに整い、外界と溶け合い、自然と自己との一体感が生まれ、無我の境地に近づいていきます。

禅の瞑想の図

禅とは、精神を集中させ執着を手放し、自然と一体となった状態「無」のこと。その境地に至るために、感覚を研ぎ澄まし心を整えるための方法として、禅僧は坐禅、作務、喫茶などを日々実践している。もっとも、この3つだけが禅の境地に到る方法ではない。ほかにも、日常のさまざまな活動によっても到達できる。呼吸とからだの感覚に集中し、心を静めた状態になるのが瞑想。坐禅、作務、喫茶といった行為にも、瞑想の要素が含まれている。

意識の粒度を上げると、生活や仕事の質が向上する

 ここまでお寺での話を中心にしてきましたが、心を整える作業は、お寺でないとできないわけではありません。毎日の行住坐臥も同じことです。靴の脱ぎ履きや、食事のときの箸の持ち方、寝る前に布団にどう入るかなど、いつも無意識に行なう日々の小さな営みにも意識を向けてみましょう。毎晩の睡眠も、禅宗では一つの作務。寝ることも修行なのです。

 禅とは、こうした日々の営みにも意識を行き届かせること。日常的な行為は、禅の境地につながっているのです。意識を向けると、感覚が研ぎ澄まされ、心の微細な変化や、自分の状態に気づける感覚が繊細になります。「よい」「悪い」「なんとなく」とざっくり捉えていた自分の体調が、より明確にわかるようになる。すると、なぜ不安なのか、なぜつらいと感じているのか。自分の心のありようが、的確に把握できるのです。

 たとえば、日常で違和感がありモヤッとすることがあったとしましょう。感覚を研ぎ澄まして、モヤモヤに向き合うと、「どうやら怒りの感情らしい」とわかる。さらにその感情を細かく分解すると「くやしさ」と「さびしさ」でできている、とわかる。「この感情をどうしようか」とさらに自分と対話する。このように感覚をつぶさに眺めることが、心を整えることなのです。

 別の言い方をすると、意識の粒度を上げると、自分の感情を客観的に眺められるのです。すると反射的にカッと怒りをぶつけたり、モヤモヤの正体がわからないまま放っておいたりすることが減ります。まず、丁寧に自分と向き合って感情を落ち着かせられる。穏やかな自分でいられると、がぜん生きやすくなります。これは家庭のいろいろな場面や、仕事にも応用できる考え方です。

日常に瞑想を取り入れて心にメリハリを

 ここまで、どんな方にも禅の思想が役立つこと、生活のあらゆるものが禅につながっていることをお伝えしてきました。次に、具体的にどのように禅を生活に取り入れていけばよいのか、私たち両足院で行なっている坐禅会をご紹介いたしましょう。

 まず、3分3回ずつの短い瞑想を行ないます。最初の3分は自分の外側、次の3分は内側、最後の3分はそのつながりに意識を向けます。最後に、15分の坐禅をします。

 15分の坐禅を一人でするのは難しいかもしれませんが、3分の瞑想は自分でも簡単に取り入れることができるでしょう。生活に瞑想を取り入れるときに大切なのは、時間を区切ることです。

 禅の道場では、11時は食事、3時は茶礼というように時間を決めています。定時にいったん手を止めると、仕事に強弱ができます。睡眠も同様で、時間を区切ることで良質な眠りを確保できます。

急須

喫茶は相手を想う時間でもある

 そして、簡単に心を整えて感覚を解放する方法が、喫茶です。お茶の時間を利用して、毎日3分だけでも、ゆっくりと自分に意識を向ける時間をつくってみましょう。自分の感覚を取り戻し、心の平穏をもたらしてくれます。禅寺の茶礼や茶道のような、決まった形式でなくても構いません。

 暮らしのお茶時間で固まっていた心がほぐれると、世の中のあらゆることにつながりを感じ、他人のことも我がことのように大事に感じられるようになります。これは無我に近い状態です。

 他人のことを大事に思う「利他」は、すなわち己に利することでもあります。他人と自分との境界線はなく、相手のためと思ったことは自分自身のためでもある─。そんなふうに広い視点をもつほど、相手のためにしたことは自分に立ち返ってきます。

 実は、急須で淹れるお茶は、利他そのもの。急須は周りの人との関係づくりに役立つ道具です。急須を使えば、一人分ではなくみんなの分を淹れられますし、「よかったらどうぞ」で、他者との関係を築くきっかけになります。さらにいえば、お茶に招く相手を想って準備したり、お茶請けやしつらえを考えたり。おもてなしのアイディアを考えることは、まさに「利他」の心の一つの表れなのです。

ちなみに茶の湯の言葉に「茶禅一味」がありますね。「茶の湯と禅は本質を同一としている」という意味です。その本質とは、意識化して執着を手放し、外とのつながりを感じること。茶の湯も決まった作法を通して心を整え、相手を思う。禅と同じ考え方です。

 さあ、普段の暮らしに、意識的にお茶の時間を取り入れてみませんか? 一人でいただくときは心を整える時間となり、誰かに淹れるときは「利他」の実践となる。禅の境地とは、禅僧だけが辿りつける厳粛なものではありません。私たちが生きていくための、一つの知恵なのです。

急須

両足院

【住所】京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町591
【電話】075-561-3216
【HP】https://ryosokuin.com/


おわりに

みなさんはどんなときにお茶を飲みますか? 仕事や家事の合間に、気持ちを落ち着けたいときに、夜寝る前になど、1日1回でもよいので、急須でお茶を淹れる時間を設けてみてください。気持ちが切り替わり、心が整うのを感じていただけると思います。